意志と力(有益)

君はいま夢を見ていないとどうして言えるの

裸体とペニス

不思議なのは映画や写真やあるいはファッションでも、女性が乳房を晒すのはよくあるのに男性がペニスを露出しているのはほとんど見たことがないということだ。

有名なハリウッド女優なんかでも、名前 + 乳首 で検索すれば映画での濡れ場シーンがほぼ必ずといってヒットして、簡単に乳首を見ることができるし、なんならアンダーヘアも見ることができる。だが男はまずない。知ってる限りだとヴィンセント・ギャロヴィゴ・モーテンセン藤竜也くらい。

なんで?

セックスシーンや裸体が作品に必要なのは分かる。それを撮らないと説得力が出ないのも分かる。ではなぜ、完全に下着の下を晒すのは女性だけで、なぜおちんちんがでかでかと写し出されることはないのか。おちんちんを見ることに、人々がここまで目を背けるのは何故なのか。

単純に、男性は女性の裸を見たいが、女性は男性の裸を見たいと思わないからだろうか?需要と供給の問題。だが、仮に、映画 ちんこ で検索してみると、ゲイの方々が運営しているサイトや書き込みが多くヒットする。ということはちゃんと需要がある。ゲイだからダメだという道理はない。とは言っても需要としてはパイが小さいのか。しかしでは需要があるからといって女性の裸は撮っていいのかという問題が次に来る。その理屈であれば女性の身体は完全に搾取されたものでしかなく、そこに芸術性だとかアートだとかいった言葉は不要になる。

なぜペニスを撮らないのか。

「撮る」を英語でいえば「撃つ」と同じshootで、要するに男根期のメタファーになるわけだが、それ故に男根とカメラは相性が悪い、とか。さすがに言葉遊びが過ぎる。

見ることには愛があるが見られることには憎悪があると書いたのは安部公房だが、しかし世の中には見られていることに愛を感じる者もいると聞いていて、それがいわゆる露出狂で、露出狂は男の方が多いような気がする。そんな気がする。たまにニュースで捕まってるのとか、だいたいおじさんだから。

子供を見てもわかる。人前で性器を露出するのはだいたい男児。あれは相手に笑ってほしいというウケ狙い以上に、快楽があるからやっているのである。間違いない。もっとも、ちんこは構造上まんこよりぼろんと出しやすいというのはあるかもしれない。兎も角、大人になってカメラの前で脱いでるのは女性ばかりで、ここまで来るとなにか大人の男のペニスに対する、なにか根源的な嫌悪が人類にはあるのだろうか、という気すらしてくる。

たしかに、女性からしたら知らない他人のペニスは恐怖でしかないのかもしれない。有名なイケメン俳優やジャニーズのアイドルなんかだったら、そんな有名人が映画や雑誌でぼろんとペニスを出したら、まあそれなりの騒ぎにはなるだろうと思うのだが、見るに耐えられるかもしれないが、知らない男性のそれでは、たとえどれほど造型が整っていても確かに嫌だろう。気持ち悪いだけ。男の場合は、全く知らない女性のであっても、おっぱいを見りゃ簡単にビンビンになるのに比べて。

女性だけでなく、男性側にも他人のペニスに対する嫌悪や畏怖があるのだろうか。

人間は他の動物に比べて、身体とペニスのサイズの比重が歪だとなにかで読んだことがある。人間のペニスは身体の割に大きすぎて、それは何故かというと人間は他の動物と比べて知性があるからエロスや快楽をよく分かってしまって、その結果ちんこの大きいオスだけがメスに選ばれ続けたからだとなにかに書いてあった。ほんまかいな。でもそれが事実であるならば、ちんこを大きくしたい、というのはDNAレベルに刷り込まれた本能ということになる。

人間も猿の一種だから、猿山のボスになりたいという欲望を抱えていて、本物の猿だったら単純な腕力だけの勝負になるのだろうが、人間の社会は複雑だからボスになるための武器が複数あって、ボスへの成り方も極めて複雑なルートで、そもそも山が無数にあるから色々なボスが世の中にいるのだけど、そこにペニス一発でボスになれる山があるということになる。ボス、という抽象的な書き方をしたが要は遺伝子を残せるか残せないかということだ。ペニスがデカイだけで、遺伝子は残しやすい。

つまりペニスはひとつの武器なのだ。

そして好き好んでカメラを持つ男なんてものは、自分のペニスの代替としてカメラを選んでいるのだから(shootの言葉遊び再び)半ば去勢されている男のようなもので、他人のペニスに当然嫌悪感を抱いている。彼らは無意識下に武器を捨ててしまっている。彼らは視姦しかできない。だから女の裸は撮るが男の裸は撮らない。ペニスを強姦することはできないからだ。持つ者と持たない者。男性のヌードがなぜ少ないのか。決して男の裸がアートになり得ないわけではない。ダビデ像はどうなるのか。ただ、ひとえにカメラが<ペニス>と相性が悪いからである。

自身のペニスで「撃つ」代わりに、彼らは女性のヌードを「撮る」のである。

懐かしい痛み

 5年以上昔に別れた元カノの夢を見た。

一時期は毎日のように見ていたのだけど(大爆笑)、いつの間にかそんな夢、見なくなってそして普段の生活でもほとんど思い出さなくなって(ほとんど、という所がポイントですね)、もう大丈夫だと思っていたら久しぶりに出てきた。そして案の定ハートがやられてしまった(大爆笑・そして死)。

夢の中で彼女はYoutuberになっていた。皆さんどうですか?一時期毎日のように夢に出てきた元恋人が、Youtuberになっていたら。端的にこれ以上のショックってないですよね。

夢の中のわたしも案の定大変なショックを受け、なんで?そんな子じゃなかったじゃん!と思いながらも、しっかりとチャンネル登録してアップロードされている動画を延々と再生し続けていた。ああ変わっちゃったんだなあ、まあおれもこの5年でだいぶ変わっちゃったしなあ、しょうがないなあ、ああでもそっかー、こんな風になっちゃったのかー、でもなんでYoutuberになんか、やっぱ儲かんのかな、でもこんなことするような子じゃなかったのに、Youtubereなんてものを一番軽蔑してるような子だったのにさ、でもそうだよな5年も会ってないからな、そりゃ変わっていくよな、もう昔の彼女じゃないんだな、でも今の彼女の姿がいっぱい見れるな。とかね。

現実の、本当の彼女は、今どこでなにやってんだろうねーーー(泣・そして死)

元気の秘訣

筋トレしてるって言うと元気だねと言われる。

ツイッターに愚痴を書くと暗いねと言われる。

別に元気でもないし暗くもないし、普通なんだけどな。休日だれにも会いたくない時とかあって、そんな時に限って遊びに誘われて断ったら、やはり元気がないと言われる。

本当におれが元気がない人なら、「元気がない」なんて言っちゃだめだし、逆に元気なんだったら「暗い」なんて言わないでほしい。どちらにせよ、なにも言わないでほしい。

しかし自分としては精神状態普通だと思ってるけど、まわりからやたらと「元気がない」とか「暗い」とか言われると、本当に元気がなくて暗い人になったような気がしてくる。安部公房みたいな話ですが。

さてと筋トレするか。

 

心のノブ

先日、友人たちとのんでいて「心のノブ」という話題になった。

なにをしていても、心の何処かでノブが突っ込んでくるというもの。「どういうお笑い?」「小栗旬か」「もう飽き飽きなんじゃ」とか。ノブはなんにでも突っ込んでくる。

ノブにはいつもボロクソに言われる。ノブがわたしを褒めることは少ない。でも仕事をしているときはあまり突っ込まず、「ええ調子じゃ」とたまに言ってくれる。逆に休日にふらふらと若い女の子を口説いていると、「勘弁してくれ、見てられん」と言ってくる。

そうやってがんがん突っ込まれて、行いを正し、イタくない人間になり、やがて何も面白くないおじさんができあがる。

遠くに行きたい

たとえば何軒美味しいお店を知っているか。いきつけのお店があるか。素敵な場所を知っているか。もしくは人脈、フットワークの軽さ、経験によって導きだされる知見。そういうこと。

そういうことができる大人にならないといけない、というプレッシャーをふと感じてしまうことがある。ならなくても別に良いんだけど。部屋の中で知りうることだけを知って満足してもいいんだけど。でもこれくらいの年になると、そろそろそういう大人じゃないとまともに相手にされなくなるような気がしてしまう。舐められてしまうというか。

まあいい歳して幼稚な趣味の人間でも、それでも誰かしら相手してくれるとは思うんだけど。オタクでも、それはそれで話面白いし。でもキャバ嬢は相手してくれないじゃん。キャバ嬢は相手してくれないじゃん。

キャバクラでモテる大人になりたい。

もちろん金払いが良さというのは大前提で。そのうえでどういう話術、話題が女の子にはウケるのか。

逆に、いい歳してサブカル知識等で女子大生と仲良くするおっさんって、キャバ嬢には絶対モテないよね。そういうのはもういいです。もういいんです。

キャバ嬢にモテたい。

 

そしてふと、すべての関係性を断ち切ってまたどこか遠くにいきたいと感じる。ああ、リセットしたいなあ。

反知性主義

学生時代は蓮實重彦とか柄谷行人とか東浩紀とか宮台真司とかそんなのばっかり読んでいて、まあ当然働きだしたらそんなものはからっきし読まなくなった。

今は週1回サウナに行って月1回メンズエステに行って行きつけの居酒屋とバーをはしごする素敵な生活。完全にアラサー独身男性の嗜み。この情報過多のネット社会においては知識なんてものは必要なく大切なのは身体性の伴った自身の経験のみ。文学の革新などと言う男よりもビールにマッコリを混ぜると美味いよと言う男の方がモテる、と金原ひとみが書いていて、確かにと頷いていたのも今は昔。わたしもすっかり文学談義なぞしなくなってしまった。友人と集まっても良いサウナ場の情報交換のみ。

これで良いのかな?

いや、良いでしょうが!ねえ?

巷では反知性主義とかなんだかんや言われておりますが結局さあ、自分の経験で本質を語れる男の方がかっこいいじゃないスカ、いっぱい本読んでいろんなこと知ってます(でも自分でやったことはない・行ったこともない)なんて男よりもさ。まあワイドなショーの松本人志なんて見てるとやっぱ学がない人が難しい話するのは厳しいな、難しい話をできない大人もどうかな、なんてことも思うけども。

あとは行きつけのスナックだよね。そこでカラオケしてるおじさんになりたい。あとはギャンブルも多少嗜みたいところだが、いかんせんギャンブルの才能が欠如しているので良くも悪くもハマれない(ハマる前に負けていやな気分になるから)。

でもたまにフッサールとかメルロ=ポンティとか、そういうゴリゴリのものを読むととても癒される。本当に癒される。

フッサール良いよね。

戦前

北朝鮮からのミサイル報道が出た日は原宿から渋谷まで歩いてショッピング。

友人から帽子を買いたいのでついてきてくださいと誘われて、なんでいい歳した男同士で帽子を買いに行かないといけないのか、こんな日に、と思ったけど、まあどうせミサイル落ちたらどこにいても同じなのでせっかくなので渋谷にまで行くことにした。家を出る瞬間はとても嫌な気分、だったけれど。

渋谷はいつにもまして路チューしているカップルが多かったような気がした。戦争という、味わったことのない緊張感、無常感、タナトスを前に、人々の「どうせ死ぬならセックス」という気分が街中を覆いかぶさり、いたるところでがエロスが蔓延していたのではなかろうか。一方のわたしも、指揮官がボタンを押したが最後、命が一瞬で消し飛ぶという可能性を前にし、異常にまで充実した一日を送る。

男同士で買い物をしただけだが、ひとつひとつの風景や言葉が、異様なまでに鮮烈に脳に認識された。かけがえのないきらきらとした日常として。

やはり死が間近に迫ると生がきわたつ。今までどれだけのんべんだらりと生きてきたのかがよーく分かりました。こんな充実した日常が送れるなら、ずっと北朝鮮とアメリカにはチキンレースをやってもらってもよいとさえ思った。終わらない戦前、最高。

その数日後に出張で茨城に行く。会食後、タクシーでホテルに戻っている時、こちらは何も話を振っていないのに、運転手さんが突然こんな話を始めた。

「この近くに自衛隊の基地があるんですけどね、ここに関東の自衛隊が使う武器や銃弾が全部あるみたいで、どうも北朝鮮がねらってるらしいんですよ、ここが落ちれば関東の自衛隊はままならなくなりますからね、それでこの基地には火薬なんかもたくさんありますからミサイルなんかが落ちた日にゃもうこの辺全部燃えますね、終わりですよ、ぜんぶおしまい、みなおしまいですよ」